Blown kiss.
キスが。
キスが降ってくる。
落ちてくる脣は何時だって溶けそうに熱くて、強引で、其の癖臆病に優しい。
夢現の合間に触れてくる脣の接触を知って、クラウドは抱かれた腕の中で知らず頬笑んだ。
最初は髪へと触れる、啄むようなキス。
次は眉尻、其れから目端へと滑らせるような小さなリップノイズ。
耳許に吐息を吹き込むようなキスを送られ、擽ったさに肩を揺らしたところで覚醒を促す声に柔らかく名前を呼ばれる。クラウド、と。
自分を呼ぶ寝起きの掠れた低音が心地好くて、逆に深く微睡んでしまいそうになるクラウドの耳朶をザックスが悪戯に甘く柔噛んでは、頬にも啄むようなキスが振ってきた。
ザックスのキスには法則がある、と気付いたのは、無論キスをするような間柄になってからのことだ。
必ず髪筋を啄むようなキスから始まり、ゆっくりと確かめるような仕種で、焦らすように下りてくる。丁寧に優しく慈しむようにして落とされるキスに微睡む朝が、クラウドは好きだった。
見た目にそぐわぬ慎重さを以て触れてくる脣の柔らかさに、夢と現の境を揺蕩い乍らも口許が緩む。
そうしている間にも、時折微かなリップノイズを伴った脣が頤のラインを辿り落ちて、巡礼染みた仕種で最後に行き着く先を知っているクラウドは、無意識に其の瞬間を心待ちにしてしまう。
さいごのキスは脣に。
下脣に歯を立ててから重ねられる甘やかな感触を思って、知らず潜まる吐息すらもが甘美に感じられた。
「……?」
しかし待ち侘びた感触は得られず、代わりに鼻先へと啄む脣が落とされる。
まだ覚醒しきらない意識を無理矢理に引き摺り上げるようにして重たい瞼を上げると、霞んだ視界の先には魔胱独特の金属めく蒼い瞳。
「おはよう、クラウド?」
笑うような穏やかな低音に鼓膜を揺すられ、其処でクラウドの頭が漸く鮮明になった。
視線を巡らせると眠った時と変わらぬベッドの上、ダブルの其れを狭く感じるのはザックスが大きいからか。カーテンを引いた窓からは生まれたばかりの陽射しが傷の多いフローリングへと差し込んで、ザックスの言葉どおりの朝を告げていた。
朝日の眩しさにスカイブルーを眇めると、大きく優しい掌に頬を包まれる。
「……おは、よ」
返す自分の声が掠れ、ぎこちなくなってしまうのにクラウドは軽く眉を寄せた。目が覚める前までの幸せな気分はすっかり消え、代わりに何とも云えない居心地の悪さに支配される。其れはここ一ヶ月程変わらず感じて居るもので、其の原因が自分にあると知っているクラウドは何とも居たたまれない。
そんなクラウドの気持ちを知っている癖、いつもと変わらない笑顔を見せて優しく触れてくるザックスは狡いだとか、責任転嫁めく感情が胸の奥隅に小さく燻った。
否、違う。
自分が悪いという自覚があるのだから、クラウドが折れれば丸く収まるというのに、其れが出来ない。素直に一言謝ればいいのかも知れない。若しくは自分からキスを仕掛ければ、ザックスは笑って応えてくれるのだろうと思う。
しかし、そう出来る程にクラウドは恋愛というものに慣れてはいなかったし、子供っぽいとは思うも自分は悪くないのだと自己弁護する気持ちも強かった。実際、クラウドはまだ十五で、其れ程大人びた対応が出来る筈もない。
「どうした? 何、考えてる?」
クラウドの考えていることなどお見通しの癖に、ザックスは何も解っていない振りをする。普段なら意地が悪いと詰ることが出来ても、今のクラウドには其れを云う資格もない気がして、何でもないと首を振るのが精一杯だ。
「今日、おまえの仕事が上がったらさ」
「……うん」
筋肉質な腕が普段と同じ仕種で腰へと廻され、背中から抱き込まれる体勢にクラウドがシーツに顔を埋める。セックスもせずに眠っていたベッドは、埃っぽい太陽とザックスの匂いがした。
クラウドの金糸に鼻先を埋めるザックスのの吐息が耳に掛かって、落ち着かない気分になる。けれど其れはクラウドだけだとでも云うように、耳許の声は穏やかで優しかった。いっそ辛く当たってくれた方が楽なのに、と思う。真綿でじわりと嬲られている気分だ。
「飯、食いに行こうぜ。カンセルが旨い店見付けたって云ってたから、場所、聞いとく」
――カンセル。
ザックスの口から出た言葉に思わずびくりと肩を揺らしてから「うん」とクラウドはもう一度小さな肯きを返す。
「終わったら、メールするから。多分、定時には上がれると思うけど」
「今日は余計な雑務、引き受けるなよ」
「解ってるよ。……も、起きないと仕事に遅れる」
ピピッ、と枕元で鳴り始めた電子音に気付いてクラウドが腰に廻った手を叩くと、名残惜しそうなキスを頬に残したまま腕が解かれた。
無骨で大きな掌が金糸を拾い、つぃと引かれてクラウドは肩越しに振り返る。思っていたよりも近い位置に真摯なザックスの顔があり、こくりと息を詰めた。
脣と脣が触れそうな、距離。吐息が静かに絡む。
どうしよう。ずっと此の儘自分の所為でキスをしないんだろうか。ザックスが臍を曲げてキスをくれないなら、自分から仲直りのキスをするべき何じゃないか、とぐるぐるとクラウドの頭の中を懊悩が占める。何より、まだ謝罪のひとつもきちんと出来ていない。
しかし、キスなんて自分からしたことがない。ここ一ヶ月の間に何度も考えていたことをまた思いながら、意を決したクラウドが瞳を伏せかけたところで無情にも時計のアラームとは別の電子音がふたりの間に割って入った。
ジジジジジ、とバイブの振動音も伴う其れはシーツに埋もれていたザックスの携帯からで、クラウドが其れを見付けるより横から伸びた褐色の指先がフリップを開いて応える方が早かった。
「こちら、ザックス」
受話から漏れ聞こえてくる声に無意識に耳を欹てていたら、とんと宥めるようにザックスに背中を叩かれる。仕事の話だから聞くなと云うことだろう。機密性の高い任務を請け負うソルジャーと解っているから、クラウドは何も云わずにバスルームへと向かう。「うん」だとか「ああ」だとか相槌を打つ声を閉め出すようにドアを閉めた。
シャワーカーテンを引いてコックを捻る。蛇口から勢いよく迸った湯が排水溝から流れていくのに気付いて、慌ててタブに栓をした。
一体自分は何をしているのかと、自嘲気味な溜息が漏れる。この不自然な状況を早くどうにかしなければと気持ちばかりが急くも、行動が全く伴わない。
「クラウド」
トントン、とノックの音。気付いて顔を上げたところで軋みと共にドアが開かれ、顔を出したザックスと視線が絡んだ。
「悪い、今夜の予定だけどさ。少し先延ばしにしてもいい?」
拝むように軽く両手を合わせながらバスタブ横にしゃがみ込むクラウドへと近付き、ザックスが顔を覗き込んで来る。思わぬ近さにどきりと鼓動が高鳴ったが、湯の蒸気が赤くなった頬を隠すように室温を高くした。
「ミッション?」
「おう。今からちょっと出てくるけど、なるべく早く帰るから。戻ったら飯、食いに行こうな」
くしゃりと子供にするように節くれ立った大きな手がクラウドの髪を撫ぜ、其れから額へとキスが落ちる。
「解った、待ってる。気を付けて」
いつ帰ってくるの、と口を吐きかけた問いが額へのキスを受けて喉に引っ掛かって消えた。
こうも頑なにキスをして貰えないと、もうザックスは自分を好きじゃないのではないかと思えて仕方がない。自分からキスも出来ないクラウドを見て、ザックスも同じように感じてやしないだろうかと不安が過ぎるも、これからミッションに向かうザックスを煩わせたくなくて言葉を飲む。噛み潰した言葉は其の意味と同じぐらい苦い味がした。
「行ってくるな」
「行ってらっしゃい」
ザックスは家にはバスターソードしか置いていないから、出掛ける時もほぼ身ひとつで用意らしい用意も何もない。
見送ろうとバスルームを出たところでクラウドに気付いたザックスが振り返って笑い、愛してると囁いて頬にキスをした。
ザックスが遠征に出て一ヶ月と少し。いつだってひと月以上のミッションが殆どだったが、今回は常よりもザックスの帰りが待ち遠しい。
うやむやな気持ちで送り出してしまったからだろうか、と思いながらクラウドがキッチンの壁に掛けられたカレンダーを見ると、十月も既に二周目に入っているというのにまだ九月のままだった。
元々キッチンにカレンダーを置きたがったのもザックスで、クラウドにこのカレンダーで日付を確認するという習慣はあまりない。特にザックスが遠征に出掛けてからは専ら朝から晩まで仕事に明け暮れていたせいか、日付の把握は凡て神羅のデスクで行うのが日課になっていたので気にも留めていなかった。
遠征のたびにクラウドが捲り忘れている所為で、帰ってきたザックスが数枚を纏めて剥がすなどということも珍しくはなかったが、今回は気付いたのだからとクラウドはひと月遅れのカレンダーをビリと破く。
飾り気も何もないカレンダーの一ページをくしゃくしゃと手の中で丸めながら新しいページに羅列した数字を見ると、本日はどうやら金曜日らしい。日付けの把握はしていたが曜日の把握はしていなかったと気付いて、クラウドは微苦笑を漏らした。
「十月九日、か……」
ザックスが出掛けて未だ一ヶ月、もう一ヶ月。
キスの一件から丁度二ヶ月目であることに気付いたクラウドが、何とも跋の悪い顔をして丸めたカレンダーをダストボックスに投げ込んだ。
件のキス云々、喧嘩とも云えない喧嘩のことの起こりはそもそも八月に入ったある日のこと。ザックスと恋人関係、という何だか嬉しいような恥ずかしいような関係になって半年が過ぎた頃である。
元からの同室だったため、変化したふたりの関係を周囲に怪しまれることはなかったが、クラウドが執拗に新しい関係を周囲に知られることを嫌がったので、ふたりは所謂秘密の関係だった。クラウドに云わせるなら、彼の人生最大のトップシークレットである。
別にザックスが恋人であることを恥じている訳ではないが、其処は思春期の難しいお年頃。彼女が出来たのでさえ恥ずかしい年齢だのに、よりにもよって恋人は彼氏。軍隊にあればそういった類の偏見は少なかったが、クラウドは断固としてマンション以外ではザックスを必要以上に近付けようとしなかった。
「家では恋人、外では上司と部下」のスタンスは良くも悪くも貫かれ、最初は文句を云っていたザックスもクラウドの頑なさに諦め始めていた其の時、ふたりの間に思わぬ亀裂を作ってしまったのがザックスの同僚であるソルジャー・カンセルである。
「クラウドってザックスと出来てンの?」
神羅ビルの一般兵向け食堂にて食事中だったクラウドが、あまりにもストレート過ぎる問いに噎せ込んだ。目の前では指の間にフォークを遊ばせたカンセルが、興味津々といった顔で口許を笑わせ小首を傾げいている。
そもそもソルジャーである彼がこの場にいるだけでも人目を引くのに、声を潜めてくれもしない。
ふたりの会話に周りがそれとなく聞き耳を立てているのが、クラウドにも解った。
「突然何ですか、カンセルさん」
「ザックスは、おまえのこと好きだろ? おまえもアイツのこと好きなんじゃないの?」
皿にこんもりと盛られたマッシュドポテトをフォークの先で掬いながら、まるで明日の天気を問うような口調で聞かれ、クラウドの顔が思わず引き攣る。
「アイツ、ここ最近付き合い悪いしさ。やっぱりクラウドが家で待ってるからかなぁ、とかね」
「……」
「あ、や。別におまえ達の関係に何か云おうと思った訳じゃなくてさ」
黙りこくったクラウドに気付き冗句めかして言葉を足すも、隠しておきたい関係を露骨に口にされたという事実が既にクラウドの神経を逆なでしていることに気付けないカンセルだ。
クラウドはクラウドで、今まで誰に対しても上手く隠してきたつもりでいたので、ザックスがカンセルに話したのだろうか、と内心疑い始めていた。ザックスが決してクラウドの嫌がることをしない男だとか、そんな事実は動揺の前に既に吹っ飛んでいる。
何よりも、ふたりのことを何もかも知っているような口振りで話すカンセルがひどく癪に障った。
「ただ、ザックスは今まで俺から見ても心配な部分があったからな。おまえが一緒にいてくれんなら……」
「付き合ってないです」
「は?」
「別に、付き合ってないです」
「へ?」
「だから、ザックスと付き合ってなんかないって云ってんだよ!」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして見返してくるカンセルに苛ついて、云いざま手にしていたフォークをプレートに投げ付け放ると、カンッとぶつかり合った金属が鋭利な音を響かせる。其れに重なるようにして、ぷつんと何かがクラウドの中で音を立てて切れた。
「ちょ、クラウド! おまえ、落ち着け、ちょっと待て!」
クラウドの沸点が低いという噂は聞いていたが、予想より遙かに低い場所にあったらしい――と漸く気付いたカンセルが慌てたように宥めるが、時は既に遅い。
チョコボのような金色の毛並みを逆立て、威嚇する猫のようにクラウドはスカイブルーの双眸でカンセルを睨み付けていた。
「煩い! 俺は、ザックスなんか好きじゃない!」
大嘘である。
しかし、この時クラウドの頭を占めていたのはザックスとの関係が露呈しないことであって、嘘を吐いてでも秘密を守り通すことだった。
そして衆目の中、悪いことをした子供が自分の無罪を主張するようにして張り上げられたクラウドの声は、思いの外よく響いた。途端、ざわついていたホールがシンと静まり返る。
「俺は……」
「クラウド! 待て、クラウド! たんま!」
頬を高揚させて云い募ろうとしたところで、クラウドはカンセルの視線が自分の背後に向いていることに気付いて双眸を瞬かせた。手にしたカンセルのフォークから食べ掛けのマッシュドポテトが、ぼてりと音を立て落ちる。
嫌な予感がして、クラウドがそろそろと肩越し背後を振り返ると、良く見知った姿。
「よお」
立っていたのはザックスで、いつもと変わらない笑顔と共に片手をひらりと揺らす其の仕種に、他ならぬクラウドが青ざめた。
つい一瞬前までザックスとの関係を否定することに一生懸命だったのに、そんな自分の言葉を聞かれたと思えば一気に罪悪感に襲われる。
いつもと変わらない顔で笑っているのは、どうしてか。間違いなく自分は今、ザックスを疵付けた筈だ。
云って良いことと悪いことがあるとしたら、間違いなくクラウドが口にしたのは後者で、自衛に走ったとて口にすべき言葉でなかったと気付くのは後悔と一緒だった。
「……ザックス……!」
喉が干上がる。
云い訳をしようとクラウドが名前を呼ぶも、続く言葉はぽんと宥めるように頭に置かれた手に遮られた。
「おまえ、何そんな騒いでンだよ」
まるで自分に対するクラウドの言葉など聞いていなかったかのように首を傾げ「忘れ物」と手にしていたディスクを差し出しながらザックスが笑う。
言葉を失したクラウドがカンセルを見ると、彼もまた発する言葉が見付からないような顔をしていた。
其の後ザックスは野次馬になりかけていた周囲を上手く宥め賺し、クラウドに特別何を告げるでもなくカンセルを引っ張るようにして食堂を出て行った。
文字通り取り残されたのはクラウドで、自分の失言と、其れを聞いていなかったかのザックスの振る舞いに暫く茫然自失と立ち尽くしていた。
――其れが、かれこれ二月も前のことだ
結局其の一件の後もザックスの態度は変わりはしなかったが、其の日から何故かクラウドの脣にキスをしなくなった。
「死にたい」
軽率にも自分の口から出た言葉を思い出し、クラウドはゴツンと捲ったカレンダーに額をぶつける。打った箇所がジンと痛んだが、其れよりもザックスの気持ちを思って胸が痛んだ。
恥も外聞も捨ててあの場でザックスを引き留めれば良かったと思う。其れが無理だったとしても、ザックスが遠征に出るまでの一ヶ月の間、どうして自分は云い訳も謝罪もせずにキスを貰うことだけ考えていたのかと、其の傲慢さに気付いて自己嫌悪ばかりが募った。ただ、クラウドが何かを云おうと、しようとするたびにさり気なくザックスが其れを遮っていたことも事実で。正解がどこから導き出されるものかすら解らなくなる。
色々と思うべきところはあれども、ザックスがいなければどうしようもない。
クラウドのことをどう思っているのか、食堂での一件でどう思っているのか、何れにせよ聞くべき相手であるザックスは現在遠征中であり、連絡も出来なければ答えを貰える筈もなかった。
其れでも信じるべき言葉があるならば、出掛ける間際にくれた愛しているの言葉だろうか。
そんなことを考えながら、もう何度目になるか解らない溜息を吐いたところで、鳴り響いた玄関のチャイムに因ってクラウドは現実へと引き戻された。
時計を確認すると、時刻は既に深夜近い。
「ザックス?」
元々人の訪れが少ない部屋である。もしや帰ってきたのだろうか、と考えるよりも先に気持ちが声になっていた。
ザックスだと思ったら、急に動悸が激しくなって足が縺れる。足先がダストボックスに当たり、先刻投げ入れたゴミを散らしたが気にする余裕もなかった。キッチンを抜け、転けつまろびつ玄関へと辿り着いては、縋るようにしてドアを開ける。
「ザッ……!」
ザックス、と。名前を呼び掛けるも、視線の先の人物を見て、声は最後まで続かず細く吐息に変わる。
「久し振り、クラウド」
其処にいたのはカンセルで、遠征の帰りに直接クラウドの部屋に寄ったのか、所々に血を張り付かせたお世辞にも綺麗とはいえない身なりだった。普段は見せる彼独特の穏やかな笑顔も、今はない。
「サー・カンセル、お疲れ様です。ザックスに用ですか? 未だ、帰ってないんです、けど」
ザックスがどこにいるかなど、ソルジャーとして同じ情報を共有している筈のカンセルの方が知っている筈だ。ならばクラウドに入り用なのだろう。でも、何故、どうして? ザックスとカンセルの遠征先は違ったのだろうか。
嫌な予感に視界が眩みそうになって、クラウドはドアノブを強く握り締める。
「ごめんな」
何に対する謝罪なのか解らず見詰めていると、カンセルが顔を歪めるようにして笑った。
彼の血に汚れた片手が差し出され、反射的に受け取ろうと手を伸ばす。
ずっと握り締めていたのだろうか、シャラと音を立ててクラウドの手に落ちてきた其れは、金属だと一瞬解らない程にカンセルの体温を移していた。
拉げたドッグタグ。
刻まれたアルファベットは歪に潰れ、こびり付いた血が酸化して既に茶に変色していた。
「…Z, …, K, S, ……F, A, I, R……?」
刻まれた、見覚えのあるアルファベットの並び。弾丸を受けたような抉れが文字を一部消してしまっていたが、其れでも見間違う筈がない。
ベッドの中でも、肌身離さず付けていたドッグタグ。
誰の?
「……ザックス……?」
喘ぐようにして脣に乗せた名に、喉が掠れた。視界が白くチカチカとして、立っていられなくなる。
何時だと云った? このドッグタグを外すのは、何時だとザックスは云っていたか。
「クラウド!」
自分の身体が傾いだことにすら気付かない程のパニックにクラウドは双眸を大きく見開き、縋るようにカンセルの血に汚れた服を掴む。
鼻孔を擽る火薬と血の匂い。この血は、誰のものだろう。
寒くなどないのに、瘧のような震えが止まらなかった。
一人では満足に立っていることも出来なくなったクラウドを支えるように、カンセルの腕が背中に廻る。だが違う、欲しいのはこの腕ではない。
見た目よりずっと厚い胸板を突き飛ばすようにして後退り、クラウドはずるずると背中を壁に擦らせるようにしてしゃがみ込んだ。
カンセルが何か云っている。
耳鳴りと動悸とに混じり解け合う音は意味を成さず、呪文のようにクラウドの頭の中で鳴り響いていた。
キスが。
キスが降ってくる。
馴染む肌の暖かさと、掠める吐息。
順番を辿って落ちてくるキスが、最後に下脣を柔噛んで甘いキスをくれる――夢。
「……」
瞳を上げると、ぼやけた天井が視界に入る。
自分の体温で温まった筈のシーツが、いやに冷たく感じられた。
枕元の電子時計に手を伸ばす。
時間は午後六時、日付は十月十一日、日曜日、室温は二六度。
仕事は昨日と今日、無断欠勤してしまった。カンセルが口を利いておいてくれると云っていたが、正直もうどうでもいい。
鼻先をシーツに埋めるようにして顔を押し付けると、微かにザックスの匂いがした。
首に掛けたビーズチェーンの上を滑ったドッグタグが、金属の擦れ合う音を立てる。無意識に其れを指先で探り、掌に握り込んだ。
悲報を運んだカンセルの言葉が、今更甦ってくる。
――ザックスが死んだ。
手の中のドッグタグをきつく握り締め、ああそうだ、とクラウドは一人納得する。
常にザックスの胸元で揺れていたドッグタグは、今は自分の胸元で揺れていた。
ザックスがこれを手放す時は何時だと云っていたかを思い出し、死ぬ時だと口にしたのを不思議な実感を伴って理解する。
涙は出なかった。
ただ、其れまで思っていた後悔だとか心配だとかさえもがどこに押し流され、心の中ががらんどうに為ってしまったかのように、満たすものが何もない。
電子時計を床に投げ捨てると、フローリングに新たな傷を作る音共、悲鳴のような電子音が一瞬だけピッと鳴った。
電気も付けずに薄暗くなったベッドの上、視線を移すと目に入るのがザックスの枕。
そういえばザックスがいる時に枕を使った記憶がないと思えば、いつだって腕の中に抱かれて眠っていたことを思い出す。脣へのキスがなくなってからも、ザックスは宝物を抱くようにしてクラウドを腕に囲い込んで眠っていた。今更ながらに気付いて、自嘲的な笑みだけが脣を歪ませる。
其のザックスの枕の上に投げ置いていたジップバッグに手を伸ばし、引き寄せる。中にはUSBメモリよりも一回り程小さな特殊メタリック素材の記憶媒体らしき、もの。端には刻印された神羅のマーク。
予算の関係で開発中止になった、音声記憶媒体だとカンセルが云っていた。正しくは、再生する方の機材が篦棒に高くついて、軍への頒布は無理という結論に至ったらしい。特殊合金製だったためか、これといったダメージもなくドッグタグと一緒に残っていたという。
ザックスの持ち物だと其れを差し出された時、軍に届けなくて良いのかと聞いたらカンセルが笑った。ソルジャーはどんな形であれ機密は残さないものだから、この中に何か残って居るとしたら其れはザックスの極個人的なものだろう、と。
何が録音されているのかは気になったが、例えばもし何も録音されていなかったらと考えて。肩透かしを食らうのが嫌で、クラウドは受け取ってからそのままベッドの上に放置していた。
けれど今は、何の根拠もなく聞いても良いような気がして。明かりも付けないままベッドから起き上がりると、手を伸ばしてノート型端末を布団の中に引っ張り込んだ。
コンピュータは軍からザックス専用に支給されたもので、週明けにでもタークスだかが回収に来る。つまり、これが回収されてしまえば、録音されているのかどうかすらも解らない記憶媒体の中身が、一生解らなくなるということだ。
趣味が悪いと何時だか笑った、ディスプレイの裏に貼られたチョコボのシールを撫でてから蓋を開ける。
電源を入れるとディスプレイが明るくなり、直ぐにパスワード入力画面が現れた。
「……"Zack"とか? いや、まさか……」
幾らザックスでもそんな解りやすいパスワードにはしないだろうと苦笑する。名前をパスワードにしていたら、そもそもパスワードの意味がないではないか。
暫く何だろうと考えて、もし軍属番号だったりしたらクラウドにはお手上げだと気付く。
適当に何か入力してみようとキーボードに手を置いたところで、不意と貼られていたチョコボの丸い瞳を思い出した。他に思い付く単語もないので、指先で七文字のアルファベットを形にする。
――CHOCOBO_
入力して、エンターキー。
エラー画面が出るだろうと予想はしていたが、次の瞬間画面が切り替わった。
――Welcom Soldier Zack, your connected.
「……マジで?」
呆気なくログイン出来たことに拍子抜けしながらも、クラウドは暫くディスプレイに表示されたZackの文字を見詰め、指先で其れをなぞる。液晶越しの二進数は、特に何の感慨ももたらさなかった。
ジップバッグを開けて、中に入っていた記憶媒体を取り出しセットする。
新しいディバイスの接続確認がされた後、オートでフォルダが開いた。中には音声データがひとつ。作成日は十月四日、丁度一週間前の日付だ。
思わずタッチパッドに乗せていた指が震える。音声データを示すアイコンを撫でるように、カーソルを何度か走らせた。
ダブルクリック。
――
after loading, the memory will automatically delete.
アラートを確認、了承してから再生ボタンを押す。スピーカーの音量を上げると、ノイズ混じりの音が聞こえ始めた。
断続的に割り込むのは機関銃の連射音か。其れに被さるような荒い呼吸が、遠くで聞こえた爆音を掻き消した。
『クラウド』
ひと月振りの、ザックスの声がスピーカーから零れてくる。
『久し振り、元気か? これ聞いてるの、おまえ一人? パスワードは直ぐ解った? 俺さ、其のシール見るたびにクラウドのこと思い出してにやける。すげぇ、可愛い。おまえが』
ザックスが冗談めかして笑う声。其の後ろからは確かに戦場を匂わせる銃声だとかが混じるのに、ザックスの声だけがまるで違う空間から切り取ってきたかのように穏やかだった。
『云っとくけど、普段はチョコボじゃねぇからな、パスワード。おまえ、絶対に自分の誕生日とか名前を入れるって発想欠落してそうだから、遠征の時だけチョコボに変えてた。……あ、ヤバい。チョコボとか打ち込んでるクラウド想像したら勃ちそう』
普段と変わらない声、ひと月振りとは思えない程耳に馴染んだ低音を邪魔するように、時折ノイズが混じる。遠くの、爆音。
普段なら何を云っているんだと其の先は聞かずに終わらせるのに、今日ばかりは一言も漏らさないようにと息を詰めて耳を傾ける。
『――空が、すげぇ高ぇ。ミッドガルだと、青空なんて滅多に見られないよな。こんな戦場じゃなくてさ、クラウドとふたりで見たかった』
ああ、と思う。
「見たい」ではなく「見たかった」と、既に過去形になっていることに気付いて、クラウドはこの声を録った時のザックスの状態を想像する。無意識に胸元のドッグタグを握り直し、白む程強く其の指に力を込めた。
訃報を受けてから二日間、滲みもしなかった涙が大粒の玉を作って頬を零れ、シーツに染みを作る。けれど泣くクラウドなんてお構いなしにファイルの再生は進んで、残り時間を示すゲージだけが無情にも短くなった。
『クラウドとキスしてぇ』
唐突に出てきた単語に濡れた双眸を瞬かせ、クラウドは顔を上げる。
『起きてる時にも、ちゃんとキスしとけば良かった。寝てる時に俺がキスしてたの知らないだろ? 意外と寝穢いモンな、おまえ』
スピーカーから聞こえる声に、無意識に指先が脣へと触れた。
クラウドが知らなかっただけで、ザックスは触れていたのか。
『あ、ちょ、待て。怒るのなしな? クラウドが凄い悩んでくれてたの解ってたんだけど、もうちょっとでクラウドからキスしてくれそうだったんで、つい意地悪した。ごめん。……あと、食堂でのアレもおまえが思ってる程、気にしてねえからな。クラウドがこのあと何年もずるずる引き摺るのが嫌だから、忘れねぇうちに云っとく。俺の愛情舐めンなよ』
茶化すような口調とは裏腹に、其処に秘められた思いはひどく真摯で、優しい。溢れる涙に視界が利かなくなり、自分の嗚咽でザックスの声を掻き消してしまうのを恐れ、脣を噛むとクラウドは呼気を止めた。
『なぁ、クラウド』
「……うん」
『名前呼んで、俺の』
「……ザック……ス」
『……泣いてて絶対呼べてねぇだろ』
まるで聞こえているかのようにザックスが笑う。
魔法のように、クラウドの為に開けられた間は、リアルタイムで話しているような錯覚をもたらした。
『愛してる』
「うん」
『キスしてぇ。抱き締めて、キスして、クラウドに触りてぇよ――こんなとこで、死にたくねぇな』
笑うような声に、其れまで感じさせなかった絶望の色が垣間見えた気がして、クラウドはドッグタグを握った手に爪を立てる。ファイルの残りの再生時間が、まるでザックスに残された時間を示しているようだと思った。
『俺はしつこいからさ、クラウドが俺を必要だと思ってくれてる間は、どんな形でも傍にいるよ』
気付けば最初はまだ遠かった爆音が直ぐ背後まで迫り、ザックスの低音と共にクラウドの鼓膜を震わせる。其れがザックスの声を掻き消す程大きくなる頃には、残された再生時間も十秒を切っていた。
「ザックス、待って!」
無駄だと解っていても、言葉が止められない。
『愛してる』
――I love you.
ザックス特有の低く甘い囁きに、リップノイズが混じる。
甘い、さいごのキス。
「ザックスっ!」
弾かれたように名前を呼ぶも、リップノイズを掻き消すような爆音にクラウドの慟哭が重なり、尾を引くようにして消えた。
――File has been deleted.
>>Mission complete. 2009.10.10//aco_LIBERA.