BitterSweet Honey
別に女みたいに大事にして欲しいとか、そんな風に思っている訳ではないけれど、それでもやっぱり優しく扱われてみたいという願望が無い訳でもない。
不安定なこの心を落ち着かせるために、もっともっと確信的な言葉が欲しいのに、それらは与えられる事も無く。
言葉の節々に、動作の一つ一つに、時折紛れているそれをまるで餓えた獣のように求めている己が居た。
ゆっくりと侵食してくる冬の寒さに、隣の温もりを求めるようにしてシーツの海に腕を彷徨わせる。
しかし在る筈の温もりは既に消え、何時もと変わらない朝の訪れを示していた。
「……クルガン?」
薄っすらと部屋に漂う珈琲の匂いに、ゆっくりと瞳を瞬いてシードは見慣れた天井を見詰める。
問い掛けへの返事はなく、シンとした空気だけが部屋を満たしていた。
顔だけ動かして、炎の焚かれた暖炉の上に在る置時計を確認すると、それもその筈かと小さく溜息を吐く。正午も近いこの時間に、真面目を絵に描いたようなあの男が居る筈もない。
それでも、出て行く前に起こしてくれれば良いものを、と思う。きっと、クルガンは知らないのだ。シードが目覚めた時に感じる、独り見知らぬ場所に取り残されたようなこの焦燥感を。まだハッキリしない意識の中でぼんやりとそんな事を考え、シードは胸の中に蟠るモノを振り払うようにしてぐしゃぐしゃと寝癖のついた紅い髪を掻き混ぜた。
いい加減に起きなくては、と掛布を身体の上から押しやって、ゆっくりと上体を起こす。
「……寒いな……」
幾ら暖炉があるといっても、冷え込むハイランドの冬の空気は冷たくシードの肌を包み込み、その寒さに小さく身体を震わせる。
ふと、その乾いた寒さが己の胸に巣食うそれと酷似している事実に気付いて、シードは僅かに唇を歪めた。
こんなに寂しいと感じるようになったのは何時からだろうかと考え、クルガンと一緒に住むようになってからかという結論に達する。
ひょんな事から始まったクルガンとの同居とも同棲とも云える生活も三ヶ月目を迎え、日常的に接する距離が縮まった分、何故だか心の距離は離れてしまったような、そんな錯覚に捕らわれていた。
昔はシードがクルガンの部屋に行く事が多かったからかも知れないが、朝は必ず温かい珈琲の香りと寝起きの少し掠れた声に起こされていたのを思い出す。そう思うと、今のこの状態が酷く不安定なものに思えて、シードは置き去りにされた子供のような気持ちになった。
何が、と聞かれたならばきっと答えられない。
だが、確実に漠然とした何かがシードの心を蝕んでいる。ゆっくりと咀嚼され、諍う術も持たず流砂に飲み込まれるような、そんな恐怖だ。
「くだらねぇの……」
思ってもいない事を吐息に乗せて、シードは手を伸ばして椅子の背に掛けられていたバスローブを掴む。
せめてもの虚勢を張っておかなければ、柄にも無く泣いてしまいそうだったから。
背凭れの後ろに垂れ下がっていた部分だけが暖炉の熱で中途半端に暖まった、温かいのか冷たいのか、それすらも解らないローブを羽織って、シードは足早に寝室を後にした。
「今日は一段と……不機嫌ですね……?」
一瞬の逡巡の後、足早に歩くシードの後ろに従っていた副官のライザがそう口を開いた。
その声は何時もと変わらず穏やかなものではあったが、僅かばかりの呆れも含まれている。
「何がだよ?」
ライザが暗に云おうとしている事など疾うに解っていたが、敢えて気付かない振りをしてシードは歩く速度を落とす事なく問い返す。
背後で小さな嘆息が空気に溶けた。
「シード様、貴方が何方と喧嘩をなされようと構いませんが、兵の士気を落とすような事は為さらないでください。私事は私事、仕事は仕事です」
温和な彼にしては珍しく、少し強めの口調でライザは云う。
この数日間で兵士達の士気が落ちた原因に、シードの機嫌の悪さが関係している事は火を見るよりも明らかで。
庶民出身のシードがこの若さで今の地位まで伸し上がったのは、確かに彼の技量も大きく関っているが、何よりも戦場で皆を惹き付けずには居られない、そのカリスマ的資質が大きいのも事実だ。そう理解っている分、気付いた点を指摘してやるのが副官の役目だとライザは思っていた。
「将たる者が、私情を戦場に持ち込むおつもりですか?」
どんな言葉を発すればシードがどんな反応を返すのか。全てを頭の中でシミュレートした上で、ライザは最良の言葉を選りすぐる。
そんなライザの事を自分も理解しているからこそ、余計に性質が悪いのだと、シードは独り言ちて漸く足を止めた。
「そんなに苛々して見えるか?」
全く自覚が無い訳ではなかったが、兵士達に影響を及ぼす程だとは思っても居なかった。
「えぇ、不機嫌が服を着て歩いているようですよ」
そう云ったライザの声は何時もの柔らかさを取り戻していて、穏やかな笑みを見せた彼につられてシードも小さく苦笑する。
「夜闇を彷徨っているような状態の時は、多少不恰好でも手探りでその先にあるモノを見極める事も大切です。特に人の気持ちは、時に強引な手段を取らなければ解らないものですから」
別に何を云った訳でもないのに、どうして解るのだろうか。
サラリとシードの悩みに解決の糸口を与えて、ライザは年長者の笑みを浮かべる。
「俺、お前の頭の良いトコ、好きだけど嫌いだ」
まるで昔近所に住んでいた、苛めっ子だけれど困った時には助けてくれるガキ大将みたいだ、と心の中でシードは呟いた。
「今日は、クルガン様も早くお帰りになられるようですし、少し話し合ってみるのが宜しいかと思いますが」
ゆっくりとした足取りで歩き出したシードの横に並んだライザが、何処でそんな情報を手に入れたのか、そう教えてくれる。
ちょっと考えてみて、クルガンの副官であり、ライザの恋人でもあるリチュレが情報源だと気付いた。
「どうして、お前がそんな事知ってんだよ?」
先刻の仕返しとばかりに答えの解りきった質問を意地悪くしてやると、しかしアッサリと返事が投げて返される。
「リチュレに聞いたんですよ」
その上、そう云ったライザの瞳は見ている方が恥かしくなるぐらいに優しくて。
ライザも恋人の事になると普通の男なんだなぁ、などとシードはそんな事を思い、そしてクルガンはどうなのだろうと考える。
愛だとか、恋だとか、シードには良く解らないけれど、それでも心が好きだと叫んでいるのだからどうしようもない。
問題はクルガンもそう思っているかどうかという事だ。
だけれど、シードに触れる時のクルガンは壊れ物を扱うように優しくて、眠りに落ちる瞬間に感じる髪を撫でる指先は何時も心地良いのだ。それは、愛ではないのだろうか。
「わっかんねぇー……」
独り言のように呟くと、シードは眉間に皺を寄せて小さく唸り声を上げ、それを見たライザがまた小さな笑みを漏らした。
結局シードが帰館したのは深夜も近い時間だった。
ここ数日の職務怠慢と、何よりも今日の重役出勤がソロン・ジーの堪忍袋の尾を切れさせてしまったらしい。
元々デスクワークが苦手という事で、廻されてくる書類の量が他の同僚に比べて免除されている身でもあり、自分でも少し職務怠慢過ぎやしないかと思っていた矢先の事だったので、流石のシードも差し出された書類の束を拒む事が出来なかった。
今日に限ってリチュレと約束をしていたらしいライザは、多少恨めしい視線をシードに向けてはいたものの、最後まで出来の悪い上官に付き合い書類を上げ、文句を云いながらも最後には労いの言葉まで掛けて部屋を後にして行った。これでまた借りを一つ増やしてしまったと、シードは心の中で優秀な副官に詫びを入れる。
それに何よりも、今日こそクルガンと話をしようと意気込んでいたシードにとっても、この日の深夜帰宅は想定外だった。
きっともう眠ってしまっているだろうと、思い溜息を落として暗い廊下を歩く。使用人たちも皆眠っているのか、屋敷の中は気味が悪い程に静まり返っていた。
真っ直ぐに寝室に向かう気にもなれず、ウィスキーでも開けようかと思ったところで、ふと書斎に明かりが灯っている事に気付いて足を止める。
消し忘れたのだろうか。そう思って明かりを消すべく書斎の中を覗き込んだシードは、次の瞬間驚きのあまり酷く間の抜けた表情を晒す事となった。
「遅かったな」
聞き慣れたバリトン。しかし、予想もしなかった声が耳に届く。
一瞬何を云われたのだろうと考え、その意味を理解したのは、乾いた音を立てて本を閉じたクルガンが、掛けていた眼鏡を机に置いてからだった。
「……ん、あぁ、まあまあ……」
書斎机の上で腕を組みその上に顎を乗せたクルガンの顔を見返しながら、何だか噛み合っていない返事を返すと、そんなシードの様子に気付いたのか長い足を組み替えながらクルガンが小さく息を吐く。
「何かあったか?」
そう聞かれて、シードは始めて自分が惚けたようにクルガンを見ていた事に気付いた。
自分の事など待たずに眠っているだろうと疑いもしなかったものだから、予想外の展開に、昼間一生懸命に考えていた「クルガンに聞いて確かめたい事リスト」が頭の中から綺麗にデリートされてしまって、言葉の一つも出てこない。
黙ってしまったシードを見かねたように、クルガンがゆっくりと腕を差し出した。それは『来い』という意味で。
心の中に蟠っている事を聞くまでは、その腕を取るべきではないと解っている筈なのに、まるで条件反射のようにシードは足を踏み出していた。
クルガンの指が、頬に触れる。
たったそれだけの事にドキドキしている自分がいて、そんな瞬間にやっぱり好きなんだなぁ、などと再認識させられる。
「今日はやけに大人しいな。熱でもあるのか?」
云いながらクルガンはシードを自身の膝の上へと引き寄せ、唇を寄せると軽く口元にキスを落とした。微かに触れた吐息が弾んでいる事から、クルガンが笑っている事が窺い知れる。
――笑った。
そう理解した瞬間、シードは弾かれたように顔を離すと、驚いたように瞳を見開く。
胸が、ズクンと痛んだ。
愛されているのか、いないのか。
クルガンの笑が嘲笑なのかそうでないのか、それすら区別出来なくなっている自分がいる。
「……シード?」
訝しむクルガンに、シードは漸く彼のものとは到底思えないような、小さな声をその唇から漏らした。
「――なぁ、クルガン……。俺の事、好きか?」
唐突なその問いに、今度はクルガンが氷を思わせる蒼い瞳を瞠る。
「お前は、何を云っているんだ?」
「だって、アンタこの頃朝は勝手に出て行くし、夜は夜で帰ってくるの遅いし。会話らしい会話なんて此処一ヶ月した覚えねぇし……起きた時に独りなのも、嫌なんだよ……」
もごもごと口の中で呟くシードに、そういう事かとクルガンは音の無い溜息を漏らした。
「私が忙しいのは、今に始まった事ではないだろう。それに、嫌いな者を傍に置いておくほど出来た人間でもない事は、お前が一番良く解っているのではないのか?」
「……それは、解ってるけど。アンタに『スキ』とか『アイシテル』とか云われた事ねぇし……俺、馬鹿だからそういうの、言葉にしてくれねぇと解んねぇよ……」
欲しいのは曖昧なものではない。絶対的な、確信的な何かが欲しいのだ。何回唇を重ねるより、何十回身体を繋げるより、唯一つの言葉が何よりも効力を持つ事に、知らず気付いていた。
そんなシードの言葉の意味を汲み取って、クルガンは気付かれないように独り苦笑する。
別に云った事がない訳ではない。むしろ、飽きるほど云ってきたつもりだ。
ただ一つ相違点を挙げるとしたならば、その原因はシードが眠っていた、という事になるのだろうか。
気付かぬうちに傷付けてしまったのは面白くなかったが、これ以上苛める訳にもいかず、クルガンも今回ばかりは大人しくシードの要求に従ってやる事にする。
「シード」
普段の彼からはとても想像出来ないような甘い声音で名前を呼び、そのまま朱色の髪に指を埋めるようにしてクルガンはシードの頭を己の肩口へと引き寄せた。
次の瞬間。熱い吐息と共に耳元へと吹き込まれた言葉に、シードは一瞬何が怒ったのか解らず驚いたような顔をして、それから擽ったそうな笑みを零した。
「なぁ、もっかい云えよ。今のやつ」
聞き逃す事の無いように、クルガンの首に腕を廻して耳を澄ませると、もう一度同じ言葉が贈られる。
「愛してる。だから、仲直りをしないか?」
何時ものクルガンからは信じられない言葉の羅列に、シードは窺うように自分とは対照的な冷たい色の瞳を覗き込んだ。
『仲直り』なんて、クルガンからは一番遠い場所にある言葉だと思っていた。
「なんか、あんたが云うと似合わねぇのな」
心にあった蟠りが綺麗に消え、数時間前までの不機嫌さが嘘のように影を潜ませた、そんな顔でシードは微笑う。
『喧嘩』をしていた訳ではなかったが、確かに『仲直り』と云うのが一番合っている気がする。
だから、もう一度だけ聞きたかった言葉を強請った。
そうしてクルガンが言葉を紡ぎ終わるその前に、シードは自分から唇を重ねると
「俺も」
悪戯っぽく笑ってクルガンの唇を甘噛んだ。
そうして、朝。
柔らかい珈琲の香りと、寝起きの僅かに掠れた声に起こされて、またキスを交わすのだ。
朝 珈琲の香りで目を覚まして
でも もう少しだけ眠っていよう
微睡の中 身を任せて
そっと 心の中で名を呼べば
掠れた声が ほら
少し苦い キスをくれるよ
2000.12.29