雪降る夜に倖来たれ
人間とはおかしなモノだ。ふとした瞬間に、本人ですら思いもよらない行動を取っている時がある。
そして、今日のクルガンが正にそれだった。
『ココよりずっと遠いとこにある国には、『聖夜』を祝う慣わしがあるんだってよ。なんとかって奴が煙突から入ってきて、プレゼント置いて帰るらしいぜ?』
そんな話をシードがしていたのは、先日クルガンの執務室を訪れた時。子供のようにひどく楽しげな様子で語るシードに、その時は何故か興味を惹かれて、普段なら絶対しないような質問がするりと唇から洩れてしまった。
『お前なら、何が欲しいんだ?』
『……俺?』
『あぁ』
『んー、新しい馬具も揃えたいし、シャントレの実のワインも飲んでみてぇえな。あ、それと新しい長靴とか、あれ意外と高いんだぜ? なら、ついでに砥礪とかも欲しいよな。兵の訓練用の剣もすぐ刃が欠けっちまうし……』
『……普通はもっと、自分では手に入れられないようなモノを望むのではないのか?』
指折り数えながら欲しいものを羅列していくシードに呆れ口調でクルガンがそう云うと、反抗の意を表明するかのように片眉がわずかに持ち上げられる。
『悪かったな、くだらねぇモンばっかで。あ、でも……――』
不意に何かを云いかけたシードが、口を噤んだあの瞬間。聞こえる筈がない言葉がクルガンの鼓膜を震わせたのは何故だろう。
ほんの一瞬だけ、シードが垣間見せた憂いの表情が頭から離れない。
「重症だな」
呟いてクルガンは執務室の扉に鍵をかける。
きっと、損得関係なく自分が誰かに何かをしてやりたいと思ったのは、自分の生きてきた時間の中でもこれで二度目ではないだろうか。ゆっくりと古い記憶を手繰り寄せて、クルガンは小さな笑みを洩らす。
十年前のあの日から、人と深く関わることを極端に避けてきた自分の懐にアッサリと飛び入って来たシードは、声が大きく五月蝿くて手は掛かるが、云うほど不快な存在ではなかった。いや、寧ろ自分はあの強引さを心地よく思っているのかもしれない。
どちらにしろ、不本意この上ないことに自分はシードを甚く気に入っているらしい。でなければやっと仕事の終わったこんな真夜中に、誰が好き好んで外出しようと思うだろうか。
体の芯から染み込んでくるような寒さに空を見上げると、白い綿雪がゆっくり空から降り注いで、何日も続いたそれが白銀の大地を作り出していた。
『雪って、どうしてこう白いんだろな……』
何時だったか、シードが呟いた言葉が不意に頭の中で反芻される。
あの時、自分は何と答えたのだろうか。
そんなコトを考えながら取り出した懐中時計で時間を確認して、クルガンは足早にその場を後にした。
「『白いから、雪と云うのだろう』ねぇ。アイツにしては論理も何もねぇな」
何時だったか自分が零した問いに返ってきた答えを思い出して、シードは楽しげに瞳を細めて笑う。酒が入っているせいか、今日は何時もより気分が良かった。
窓の外では、また降り始めた雪が飽きることなく花弁のように風に吹かれて優美に舞い散り、そのままシードは雪に意識を奪われる。
あの夜も、今と変わらず白い雪が踊るように降っていて。それはシードが軍に入る前の、もっと幼い頃の事だ。
住んでいたのは今とは比べ物にならないぐらい、汚くて小さな家だったけれど、シードはそれでも両親から愛されて育っていた。雪の夜、母親は何時も暖かいパイを焼いてくれたし、父親は膝にシードを乗せて昔語りを聞かせてくれた。暖炉の傍に置かれた揺り籠の中では生まれたばかりの妹が小さな寝息を立てて居て、酷く幸せだった。
そんな『幸せ』が音を立ててアッサリと崩れたその瞬間を、忘れられない。
夜盗だったのだろう。乱暴に戸口が叩かれて、シードを膝から下ろした父親が待っているようにと、優しく微笑んで扉の外に消えた。心配そうにその後ろ姿を見送っていた母親が、それでも幼い息子を安心させようと小さく微笑み、大丈夫だよとそう云った。
怖かったらベッドの下にでも隠れておいで、そう云われて、潜り込んでいたベッドの下。何時もは何とも思わない、吹き付けた風と雪にカタカタと音を立てた窓ガラスが、酷く気味悪かった。
少しして数人の男の声と母親の悲鳴のような声が聞こえた気がして、助けなければと、そう思ったのに怖くて動けなかった。
しばらく続いていた部屋の中を歩き回る音が遠ざかり、完全に消えた頃にシードの身体も漸く動きを取り戻した。恐る恐るベッドの下から這い出ると母親のいる部屋へと繋がる扉を開けて、シードは初めて人の死を知った。
血溜まりの中、幼い妹を抱きしめ倒れている母親を見て死んでいるのだと、何故だかそれが解った。悲しみより、人がこうも簡単にこの世から消え去るものだという驚きが大きくて、泣くことも忘れていた。大丈夫とそう云ったではないか。そう、云ったのに……。
呆然としたまま、父親が姿を消した扉を開ける。その瞬間強い風と雪が、叩きつけるようにシードを襲い、それでも、頑張って瞳を開けると、扉のすぐ近くに雪を紅く染めた父親が居て。待っていろと云った彼は、冷たい雪に半分顔を埋めるようにして、ピクリとも動かなかった。
その瞬間、思い出したように涙が溢れ出した。
誰も居ないのだと、一人なのだと理解した。ただ、雪だけが何時までも止むことなく降り続いていて……。
「――……シード」
突如呼ばれた声に現実へと引き戻される。驚いて顔を上げると、自分の腰掛けているソファのすぐ横にクルガンが立っていた。
「……クルガン?」
自分の声が酷く震えているのが解る。窓の外を見ると、何時の間にか雪は止んでいた。
「何時来たんだよ?」
こんな傍に近づかれるまで気付かなかったのは、相手がクルガンだったからだろうか。
どちらにしろ、戦場で同じことをやってもし相手が敵だったとしたら……そう考えてシードはぞっとする。今までの自分なら、眠っていたとしても気付いていたはずなのだ。
「ノックはしたのだがな」
そう云ったクルガンの口調は別に責めるでもなく、呆れるでもなくシードの耳に届いた。
何故、今日はこんなにもクルガンの声が優しく聞こえるのか。自分の気のせいだと解ってはいても、クルガンがココに居るという事実が、今自分が一人きりではないという事実が酷く暖かかった。
「気付かなくて悪かった。何か用だったのか? アンタがこんな時間に来るなんて、珍しいっていうより初めてだろ」
顔を上げてそう云うと、思っていたよりも近い位置にクルガンの顔が有って、シードは驚いて目を見開く。そのまま、唇を重ねられた。
冷たい。何故だか冷静にそんなことを思いながら、シードはそっと瞳を伏せる。
啄むような口付けに自分の体温を奪われていくのを感じて、吸血鬼とのキスもこんな感じなのかと考えると少し可笑しかった。
「――……煙突から入って来た方が良かったか?」
冷え切った身体に自分の体温を分けてやろうと、無意識にシードが腕を伸ばした時、クルガンが口付けの合間でそう云った。
的を射ないその問いに、暫く考え込んでいたシードは一つだけ答えを見つける。しかし、それは絶対に有り得ない事で。
「……俺、アンタに何も云わなかったぜ……?」
それでも拭えない確信は、きっとクルガンだから。
「お前の考えていることなど、聞かなくても解る」
揶揄うようなクルガンの口調に、シードは笑う。
泣いてしまいそうで、クルガンの身体をぎゅっと抱きしめながら、シードは笑った。何時も敵わない、この男には。全てを見透かされて、それが嫌じゃない。
「俺さ……」
暫くクルガンの首元に顔を埋めていたシードが、思い出したように言葉を紡いだ。
「俺の親父もお袋も、妹も。皆殺されたんだ。誰も居ない家の中、俺だけが生き残ってて。外は吹雪がずっと続いてて……怖かったんだ」
きゅっと唇を噛み締めて声を詰まらすと、幼子をあやすようにクルガンの掌が優しくシードの背中を撫でた。
「その時俺が見た雪は、紅くて。なのに、親父の顔だけが異様に白くて。それが死ぬって事なんだって、初めて知ったんだ」
「…………」
「でも、俺にはもう何もなくて。親父とお袋が好きだったこの国を守ろうって、そう決めてココまで来たのに……それなのに、今度は俺が誰かの血で雪を紅く染めてるんだ。帰りを待っている人が居たかも知れない誰かの血で……俺は……」
自分はあの夜の夜盗達と同じなのだと、何時からかずっと思っていた。猛将と呼ばれ、慈悲なく自分よりも弱いモノ達を切り捨ててきたのだと。
雪の中見出す父親の幻影は、何時も怒ったように自分のことを見ていた。人を平気で殺す息子に育てた覚えはないと、そう自分に語っていた。
「……シード」
それまで静かにシードの話を聞いていたクルガンの指が優しく髪を撫でたその仕草は、昔父親がしたそれと酷く似ていて。また新たな雫がシードの頬を伝う。
「守りたいのだろう?」
静かな問い掛けに、シードは何度も頷く。自分はこの国を、両親が愛したこの国を守りたいだけなのだと。
「何かを守ろうと思えば、何かを犠牲にしなくてはならない。守ろうとするモノが大きければ大きいほど、犠牲となるものもまた大きい。お前の守ろうとしているものが、大きいだけの事だ」
だから自分を責めるなと、云った後でらしくないなとクルガンは苦笑する。驚いたように自分を見上げたシードと目が合って、誤魔化すようにまたキスをした。
「……アンタは……」
離れた唇の間から紡がれたシードの声はやはりまだ震えていて、それでも呼吸を整えるように大きく息を吸うと先を続けた。
「アンタは、死なないよな……?」
大切な者の血で紅く染まった雪を見るのは、もう真っ平だとその瞳が静かに語っていて。
「あぁ、死にはしない」
クルガンは頷いた。自分はシードより先に戦場では死ねないと、そう思いながら。
その答えに満足したように、シードは小さく笑うとそっと手を伸ばしてクルガンの銀髪を撫でた。
『悪かったな、くだらねぇモンばっかで。あ、でも……一人じゃない夜が欲しいのかも知んねぇな……』
どうして、あの時自分の声が聞えていたのだろうか。
そんなコトを考えながら、まだ温まりきっていないクルガンに自分の熱を分ける為、シードはゆっくりと瞳を閉じた。
独りの夜は、もう来ない。
2000.12.25