demise
クルガンの大切な人が死んだ。
クルガンが初めて俺に話してくれた、大切な人が。
両親と不仲だったクルガンを自分の息子のように慈しみ接してくれた、叔母であった侯爵夫人。
彼女が居たから笑うことを学べたと、そう微笑ったクルガンの顔は悔しいぐらいに優しくて、俺に少しばかりの嫉妬を教えた、その人が。
事故だったという。誰にもどうすることも出来なかった。
呆気なく、彼女は逝った。
クルガンに別れの一つも告げることなく。
葬式に参列して、それから仕事に戻ったクルガンは、何事も無かったように淡々と仕事をこなしている。
大切な人の死が、辛くない筈など無いのに。
そんなことはおくびにも見せずに、アイツは何時も通りの日常を送るのだ。
ただ、それでも必要以上に忙しくしているクルガンに、その悲しみの深さを垣間見た気がして、痛くて痛くて、鏡の中の俺の方が泣きそうな顔をしていた。
夕刻、一通りの仕事を終えて息抜きに書庫に向かっていたシードは、前方から歩いてくる見知った人影に足を止めた。
歩いてくる人物はシードの存在に気付いていないのか、手元の書類に視線を落としたまま歩行を続けている。
何時もはきっちりと纏められた長い髪が、今日は少しばかり乱れていて。そんなところからも彼が疲れていることが窺い知れた。
「リチュレ」
名前を呼ぶと本当に気付いていなかったのか、手元の書類から視線を上げたクルガンの副官は幾分か驚いたように目を見張り、礼儀正しくシードに一礼を送る。
「そんなモン読みながら歩いてると、柱にぶつかって怪我すんぞ?」
揶揄うようにシードが云うと、珍しく曖昧な笑みを返された。
「本当ですね。今日はこんなに忙しくなる予定ではなかったのですが……」
その言葉の端に、クルガンが遣らなくても良いような仕事まで引っ張ってくるのだと、そんな響きを含ませたリチュレに、シードは僅かに表情を曇らせた。
「今日の仕事は、もう終わったんだな?」
「えぇ、本日の仕事は勿論のこと、明日の仕事や次の軍議に掛ける予定だった人事編制の為の議案、仕舞には他軍団管轄の仕事まで持ってきていらっしゃいますよ」
クルガンがどうして何時も以上に大量な仕事を持ち込んでくるのか、その意図が解らないと、クルガンと昨夜亡くなった公爵夫人の関係を知る由も無いリチュレは、小さく溜息を吐いた。
「ワリィな」
するりと唇から零れた謝罪の言葉に、何故シードが謝るのかと困惑した表情をリチュレが浮かべる。それに小さく笑ってシードは小さく肩を竦めた。
「アイツさ、見た目よりずっと不器用だからよ。たまーに、一般人には理解できない感情の表し方するだろ?今日のもそんなトコだ。お前がこれ以上付き合ってやるは必要ねぇよ。その書類は俺がクルガンとこ行くついでに持ってくし、帰って良いぞ」
「しかし……」
「心配すんな。どうせ遣るべき仕事は終わってるんだろ?アイツだって怒りゃしねぇよ」
リチュレがしっかりと腕に抱いていた書類の束を、半ば強引に奪うように自分の腕の中に収めてシードがそう云うと、その強行をどう思ったのか暫くの間を空けてリチュレは漸く首を縦に振った。
そんなに時間を取った訳ではないのに、クルガンの部屋へと辿り着いた時には日はすっかり落ちていて、それでも明かりの灯されていない部屋にシードは眉を顰めて扉を開いた。
部屋の中に足を踏み入れると、嗅ぎ慣れないタバコの匂いが部屋に充満していて、それがまたシードの渋面を酷くする。
何時だってそうだ。クルガンが煙草を吹かす時は、自分自身でさえどうしたら良いのか解らなくなった時で。見慣れないその光景に、シードはまた胸の奥がツキンと痛むのを感じていた。
「シードか」
薄暗い部屋の中、煙草を灰皿へ押し付けて顔を上げたクルガンは何時もと何ら変わりない口調でシードの名を呼ぶ。
それさえもが、今は酷く痛い。
「これ、リチュレから預かっておいたぜ。序に、帰って良いって云っておいた」
クルガンの執務机に大股に近づいて、机上に先ほどリチュレから受け取った書類の束を放り出す。
乱雑に重ねられた紙束がバサバサと音を立てて崩れ落ち、机上を白く塗り変えた。
「アイツだって疲れてるんだ、アンタの私情でこんな無茶なコトやらせてたら可愛そうだぜ?」
云いながら僅かに残った机上の空いた部分に腰を掛けると、シードの行動を黙って見ていたクルガンが小さく溜息を吐いた。
「……そうだな」
無茶をしていると云う自覚は有ったのか、珍しくも呟くような声で洩らされたクルガンの言葉に、シードは胸の痛みの正体を知る。
「シード……?」
不意に驚いたように耳に届いたクルガンの声と、そっと頬に伸ばされた掌。
その時、漸く自分が泣いていることに気付いた。
本当に涙すべきなのは、自分ではないのに。それでも、止め処なく溢れる涙に視界が次第にぼやけていく。
「……なんでだよ……」
涙を拭う掌の温かさが優しくて。それが、苦しい。
縋るものを求めるように、シードは腕を伸ばしてクルガンの背中を抱きしめた。
「……何で、泣かないんだよっ。辛いんだろ、悲しいんだろ!? 何のに、何で……」
嗚咽の入り混じった声で怒鳴るように云うと、廻されたクルガンの腕があやすようにトントンとシードの背中を叩いた。
「……なんで、あの人はアンタに泣き方を教えてくれなかったんだよ……」
人間、笑うだけでは生きてはいけないのだ。泣くことを知らないのは、笑うことを知らないのと同じぐらい寂しいことで。
クルガンにそれを教えてやれない自分がもどかしくて、クルガンがそれを知らない現実が酷く痛い。
「今は、お前が私の分も泣いてくれるのだろう……?」
黙ってシードを抱きしめていたクルガンが、堆朱の髪を撫でながらそう云って。
ならば自分が居なくなった時、この男は泣いてくれるのかと、そんな疑問がシードの胸を掠める。
しかし、それを今は聞くことも出来ずに。
込み上げてくる行き場のない感情を吐き出すように、シードは子供のように声を上げて泣いた。
2000.08.26