デファクト・スタンダード



 ―――…ポツリ。
 不意に頬に当たった雫に瞬いて、アリスは足を止める。
 空を見上げるといかにも雨が降りますよと言った風情の雨雲が青を塗りつぶし、まるで絵の具を合わせ間違えたパレットみたいだ、と彼にそんな感想を抱かせた。
「どうした、アリス?」
 近くのスーパーの帰り道、安っぽいビニル袋をかさかさ言わせながら少し先を歩いていた火村は、漸く立ち止まってしまった友人に気付いて足を止める。それから不思議そうに首を傾げるものの、しかし次の瞬間頬に当たった雨粒に思わず眉が顰められた。
「雨や」
「あぁ、降ってきやがったな」
 のんびりと返されたアリスの言葉に、そんなことは解っているとばかりに火村は早口に返し、つかつかとまだぼんやり空を見上げている恋人の元まで来た道を引き返す。
「何で雨は降るのやろ」
 夢見心地な表情で呟かれたその言葉に、またかと口には出さず火村は呆れたようにひょいと片眉を上げた。
 アリスは、時折突拍子も無いことを言う。
 小説家だとかそういう人種に多い空想癖というやつなのか、突然これのスイッチが入るのだけはどうにかして欲しいとひっそりと胸の奥でぼやきを零し、ポツポツと勢いを増し始めた雨脚に、彼は眉間に緩く皺を寄せた。
「家に着いてから考えろ。このままだと俺もお前も、買った食材も水浸しだ」
 明日の朝食にしたいと強請られるままに買った、一斤400円もする食パンが入っているのだ。ここで駄目にしてたまるものかと火村はアリスの腕を掴み、そのまま下宿先へと続く緩やかな坂を足早に上がっていく。
「雨って不思議やね」
 手を引かれるままに歩きながら、それでも視線は空へと向いたアリスがやんわりと呟きを零す。
 落ちてくる雫は次第に道路に黒い染みを作り、そのまま雨と呼ばれるそれに代わった。
「雨って何処からやってきたのやろ」
「雨が何処から来たかより、明日の朝食がカビの生えたパンになる事の方が問題だ。もう少し早く歩け」
「せやけど、雨が雨雲から降るなら、雨雲は何処から来たんやろ。海から?したら、海は何処からきたん?」
 引っ張られる腕に軽く眉を顰めながらも、アリスは引かれる腕にしぶしぶと歩調を速め、しかし考えるのを止めるつもりは無いらしい。
 どうして宇宙が生まれたのか、という質問に辿り着くのは一体何十分後になるのだろうと、そんな事を考えながら火村は黙々と歩みを進める。
 雨は一際激しさを増し、二人が着ていたTシャツを濡らしジーンズの裾を重くした。
「帰ってから、どうして風邪を引くのかという議論をするのは遠慮したいぜ、アリス」
 本音と呆れ。それからこのタイミングで不思議不思議病に取り付かれてしまった事への微かな皮肉を混ぜて肩を竦めると、漸く肩を並べたアリスが不思議そうに顔を見返してくる。それからふにゃっと笑み崩れると、「解ってる」とほわほわとした応えが返され、火村は知らず諦めたような溜息を漏らした。
 こういう時のアリスは大抵、返事そのものが上の空なのだ。
 
 案の定、アリスの歩みが火村の望む速度になることは無く、また不思議不思議病が家に着くまで治ることも無かった。
 そうとなれば、自然激しさを増した雨を受けてびしょ濡れにもなってしまう訳で。
「…アリス、何で俺たちは濡れているんだろうな。不思議だな」
 たかが近所のスーパーに買出しに行っただけなのに、と無駄だと思いながらも口の中で呟き、きゅっとシャツの裾を絞ってやると屋根下の乾いたコンクリートに黒い染みが出来た。
ジーンズの裾も水分を吸って重くなり、纏わりつくその裾を軽く絞りながら火村が視線を向けた先では、アリスが同じようにTシャツの裾をきゅっと絞っている。
「雨に濡れると、何で人の身体って冷えてしまうのやろね?」
「体温が奪われるからだろう」
 不思議シリーズ第二段に突入したらしいと、ありきたりな答えを返しながら火村は鍵を取り出しガラガラと下宿の引き戸を開けた。どうやら家主は外出中らしく、上がり口にスリッパが揃えられており人の気配も無い。
「ちゃんとシャツ、絞ってから上がれよ、アリス」
 ビニル袋の口をキツク握っていた指を緩めながら三和土へと足を踏み入れ、火村は食パンの無事を確かめつつ靴を脱ぐ。その後に続くようにして一応の水気を絞り終えたアリスが三和土へと足を踏み入れ、くしゅん、と彼にしては謙虚なくしゃみをした。
「だから早く歩けと言ったんだ、夏風は馬鹿が引くんだぜ?」
「うるさい、馬鹿いうなアホ」
「はいはいはいはい。タオル貸してやるから、廊下水浸しにしないように気をつけてくれよ」
 無事を確かめたビニル袋を持ち直しながら声を掛けると、「おう」と小さく応えが返された。
 踏むたびに哀れなほどに軋む年季物の階段を上がりながら耳を済ませると、スニーカーの中までびしょ濡れになっていて靴下を脱いだのだろうアリスの足音がペタペタと直ぐに後を追ってくる。その音を聞きながらドアを開けて部屋に入ると、食材の入ったビニル袋を流しへと置き、着ていたシャツを脱ぎながら火村は押入れへと足を向けた。





2004.07.23