私の隣で勝手に原稿を読んでいた無作法者は、今私の目の前で一皿百五十円のカレーを頬張っていた。
いや、頬張るというのは正しくない。彼はカレーを召し上がっている、と表したいぐらいにその無作法者のスプーン運びは綺麗に見えた。それがきちんと身についたテーブルマナーによるものなのか、それとも彼独特の雰囲気がそう見せているのかは解らないが、見ていて気持ち良いぐらいに綺麗な食べ方をする。 寧ろ文字通り頬張っていたのは私の方で、奢られたカレーにぱく付きながら目の前の男を興味深く観察していた。 少し長めの黒髪はセットもされず寝癖なのか所々跳ね上がっており、何処となく眠たげな瞳はその実攻撃的な色を潜めている。伸びた前髪が邪魔なのか、鬱陶しげに掻き揚げる度に形の良い額が露になり、不覚にもその表情にドキリとした。 絶対に女受けするタイプだ、などと思ってぼんやりと向かいの顔を眺めながら、相手を観察する自分の方が無作法だという事実に気付いて思わず視線を逸らす。 …と、それに気付いたらしい相手がにやりと人の悪い笑みを浮かべ、食事を終え用済みになったスプーンを皿に置いた。 「あんまり見るなよ、減るだろ」 「人の小説を勝手に盗み見してた奴の台詞なんか、それは」 「拾い主に一割」 「落し物と違うやろ、アホいうな」 「へぇ」 口の減らない奴だと思わずムットとして顔を見遣ると、早く食え、とばかりのジェスチャーが返って来た。 何か言葉を返そうかと思いながらも、明らかに食べるペースが遅れていたので促されるままにカレーを掬い口に運ぶ。食べようとしたところでどうした訳か、カチンと痛い音を立ててスプーンが歯に当たり私は思わず眉を顰めた。 スプーンは食うなよ、と肩を揺らして笑うお向かいを見て、私は意地になったようにペースを上げて皿を空にする。 なんだか相手のペースに乗せられている気がしなくも無い。 「で、君は法学部なんか?」 ご馳走様、と奢られた百五十円のカレーを平らげた私はスプーンを置いてパンと小さく音を立て掌を合わせ、食後の一服を楽しんでいる相手の顔を見返した。 テーブルに置かれた銘柄はキャメルで、漂ってくる匂いも親父臭いなと思ったが敢えてそれには触れないで置く。下手に口にすると倍返しになってくることを、先刻の会話で私は既に学習していた。 そんな私の内心を知るはずも無く、煙草を燻らせていた相手は小さく頭を振り、咥えた煙草が微かに震えたように歪んだ曲線を紡ぐ。 「社会学部だ」 「なんや、学部違うのんか。わざわざ他学部の講義を一人で聞きに来るなんて、変わったやっちゃな」 「勤勉なんでな」 「嘘つかんときや、人の小説こっそり盗み見しとったくせに」 「他学部でもないくせに内職していた奴には言われたくない台詞だな。それに盗み見じゃない。ちゃんと奢ってやったろう、カレー?」 「…俺の小説は百五十円なんやね」 先刻から百五十円、百五十円としつこいぐらいに繰り返していたが、私の予想を外れることなく本当に百五十円だったらしい。それでも値段がついた事を小説家の卵として喜ぶべきか。結局この時書いていた小説は値段がつくことも無く落選した訳だから、得をしたといえば得をしたのかも知れない。 そんなくだらない会話を暫く交わしていたところで、ふと相手の視線が壁に掛けられた時計へと流れ、それから音を立てずに静かに腰を上げた。やっぱりマナーが良いのかも、と私は関係ないことを思う。 「この後の授業は?」 「ん?あぁ、俺は次は空きやから」 「そうか。なら勤勉な俺は真面目に講義に出てくるぜ」 「真面目が聞いて呆れるな」 そんな軽口を叩きながら立ち上がった相手を見上げると、食べ終わったトレイを取り上げ背筋を伸ばした姿は私より幾分背丈が高く見えた。 「じゃあな。今度あれの続き読ませてくれよ、センセ?」 そう言いながらヒラリと片手を上げた相手の、揶揄を含んだその呼び名にくすぐったいものを感じながらも「おう」と頷きを返すと食器の返却口へと向かう後ろ姿にひらひらと手を振って。 「…あ。」 そこでふと気付いた重大な事実に思わず動きを止める。 自分の記憶違いかと思わず交わした会話を頭の中でリプレイしながら、そうしている間にも、食器を返却した真っ直ぐな後姿は人込みに紛れてしまった。 「…アイツ名前なんて言うんやろ…」 学生の波に飲まれて消えた姿に思わず首を傾げながら、私は思わず独り言ちる。 始めてあったこの日。あれだけ軽口を叩き合った私たちは、不覚にも互いに名乗ることを忘れていたのだ。 2004.05.07
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初対面で人の小説を盗み見した無作法者の名前が火村英生だということを知ったのは、カレーを奢られたその次の週だった。
出逢った時と同じ講義の同じ席。違っていたのは雨が降っていたというその日の天気ぐらいのもので、今日こそは真面目に講義を受けようと準備をしていたところで唐突に声を掛けられたのだ。 「有栖川先生は、もう脱稿したのか」 頭上から響いた通りの良いその声に驚いて顔を上げると、見覚えのある顔が見覚えのあるあまり人の宜しくない笑みを浮かべて私を見下ろしていた。 「あぁ、ええと…君か」 名前は、と思い返そうとしたところで、そう言えば自己紹介をしていなかったのだと心の中で微苦笑を零す。 しかし取り出したノートを机に置いたところではたと気付いて隣に腰を下ろした相手を見遣り、君はどうして俺の名前を知ってんのや、と問い質してみると例の何処か意地の悪い仕草で肩を竦めて返された。 「推理作家になるんだろ、そのぐらい考えてみろよ」 「なんや、それ。減るものやなしに教えてくれてもええのと違う?」 「考えないと頭が腐るぜ?」 「………」 相変わらず口の減らないヤツだとカチンときながらも、時間きっちりに現れた教授の姿を認めて口を噤む。そんな私を見遣りながら隣の男は笑いを噛み殺し、当ててみろ、と言わんばかりに自分の頭を人差し指でトントンと叩いて見せた。 ―――本当に人を馬鹿にしやがって。 しかし教授の声だけが響く静かな教室の中、小声の会話すらも雑音となってしまいそうで声を出さずに私は悪態を吐く。 そしてそのまま講義を受けようと用意していたノートを二人の間に広げると、講義の内容とはまったく関係ないことを取り上げたシャープペンシルで書き込んだ。 『俺の学生証を拾った?』 『無くしたのか?』 『無くしてない』 どうやら人のノートだと言うことなど気にしない性質らしい。 私の書いた文字の横に直ぐさま走り書きが返され、意外に癖のない字を書く相手の顔をチラリと見遣ると視線が合った。書き込み返した私のそれを見て、馬鹿、と相手が唇を動かしたのが解る。なんだかさっきから酷い言われようではないか。 『俺が他の友達と居るところを見掛けた?』 『いや』 『こっそり俺の家まで後をつけた?』 『ストーカーか、俺は?』 『ちゃうんのんか』 『随分と名推理なことで』 親族相続法の講義をBGMにさらさらと鉛筆を走らせ、ノートが二人の走り書きで少しずつ埋まっていく。半分ほど紙面を黒くしたところで私が少し自棄になり、それを哀れに思ったのか漸くヒントらしいヒントが与えられた。 『前回の短い時間で、俺が見たオマエの私物』 小学生でもあるまいし、今時そんなに名前を書いたりしていないぞ、と思いながらも前回相手が目にしただろうモノを頭の中で並べ立ていく。 ―――筆箱、バッグ、財布、俺の顔。…ええと、他には… 「…あぁ!」 そして答えを見つけた私は、講義中だということも忘れて大きな声を上げてしまったのだ。 「…どうかしたかね?」 「あ、いえ。すみません…」 教室内に居た全員が私のことを振り返り、呆れたような教授の声に立ち上がるとあたふたと頭を下げる。ちらりと隣の男を見遣ると、私は関係ございませんと言った顔をして明後日の方向を向いていた。 直ぐにまた始まったお経のような教授の講義にほっと胸を撫で下ろしながら椅子に腰を落ち着け直し、やれやれとノートに視線を落としたところで何時の間にか書かれていた文字に数度瞳を瞬かせる。 『ばーか』 「…………」 本当に酷い言われようだ。 確かに、声を上げてしまった私は馬鹿かも知れないけれど。 『うるさい、ボケ。原稿の名前みたんやな?』 テーブルの下の相手の足を仕返しに軽く蹴りながら、漸く見つけた答えを相手に示す。 蹴られた足を引きながら、やっと解ったのかと言わんばかりの呆れ顔で相手が頷きを返した。 『BINGO』 『ペンネームだって思わんかったん?』 『思ってたが、自分でさっき本名だって言っただろ』 考えてみればその通りだと思いながら、自己紹介をしていないという考えが念頭にあった所為か、原稿を見られていたという考えが直ぐに浮かばなかったのだ。大体、相手がペンネームだと思って呼んだのか本名だと思って呼んだのか、そこまで考えが至らなかったのも敗因か。 『原稿だけやなくて、名前まで盗み見するなんて狡いやつ』 『書いてあるんだから見るだろ』 『で』 そうして私はずっと振り回されていて聞きそびれていた事を聞く。 筆談での自己紹介なんて人生できっと最初で最後だ、などと思いながら私は文字を綴った。 『君の名前は?』 書き終えた後に顔を見遣ると、相手が小さく笑ってシャープペンを掌の中で廻し、それから直ぐに応えが返される。 『火村英生』 やや大きめに書かれたその字と相手の顔を見比べると、なんだか漸くしっくりと何かが馴染んだ気がした。 こうして五月十四日、無作法者はめでたく「火村英生」に昇格したのである。 2004.05.14
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その日は翌日提出になっていたレポートを終わらせる為、前の晩から火村の下宿に居座り資料やらレポート用紙やらを広げて締め切りに間に合わせるべく励んでいた。
資料探しの手伝いを終えた火村は二人分のコーヒーを淹れ、飲み易い熱さになるまで待とうと横になった瞬間から夢の住人になってしまったらしい。夏の篭った空気に耐え切れず窓を開け放した部屋の中に、微かな寝息が規則正しく紡がれている。 私はというと、昨晩からずっと取り掛かっていたレポートが漸く完成してほっと息を吐き、既に冷めてしまったコーヒーをずるずると音を立てて啜った。 窓の外は既に日が沈みかけていて、綺麗な薄紅色が木々のシルエットを影絵のように浮かび上がらせている。 「…火村、コーヒー冷めとるよ」 資料調べに一晩中駆り立てられていた火村は小さな声で呼びかけたぐらいでは起きる気配もなく、腹に掛けていたブランケット代わりのバスタオルを胸元まで引き寄せ直すともぞもぞと身じろいだ。 出会った頃はただ単に意地の悪いやつだと思っていたが、他人のレポートに付き合って徹夜するぐらいには人が良いらしいと、知り合って3ヶ月ほどして漸く解ってきた。年寄りが電車に乗ってくれば必ず席を譲るし、迷子を見つければ交番に連れて行く。無愛想かと思えば以外に人情に厚く、掴み所が無いといえば未だに掴み所はないけれど。 折角淹れて貰ったそれを残すのが忍びなくて、冷めて渋みの増したコーヒーを飲み干してからマグカップをテーブルの上へと戻す。 カフェインを取った筈なのに、寝ていないツケが廻ってきたのか酷くだるくて瞼が重い。これが重力というモノなのかとくだらないことを考えながら、レポートが終わった今、それに逆らう理由も無いので私は身体が命ずるがままに火村の隣にゴロリと横になった。 夏の夕方独特の、涼しい風が頬を撫ぜるのが心地良い。 直ぐ隣からは深い寝息が聞こえ、それが私を誘っているかのように思えてゆっくりと瞳を伏せる。 そうしてそのままトロトロと眠りに落ち、夢の世界へと引き込まれた。 私は何も無い真っ白な部屋に居て、目の前には黒っぽい大きな犬が向かい合うようにして座っていた。 ―――あぁ、火村。君は犬になってしもたんやね。 何を訴えるでもなく顔を見上げてくる犬の首を抱き寄せ、私はしみじみとそんなことを思う。 『きゅぅん』 何時も私の名前を呼ぶあの魅力的なバリトンではなく、頼りない声で鳴くこの犬が火村だということが私には当然のことのように解り、しかし火村はそれをもう理解していないようだった。 『もう名前も呼んでくれひんのやね』 火村を抱き締めたまま呟いた言葉が、何も無い部屋の中で虚しく響き渡り、私は悲しくて悲しくて泣きそうになる。 霞んだ視界を誤魔化そうと抱き締めた腕を強めたのに、慰めるように頬を舐められ、何時もと代わらない優しさに切なくて涙が零れた。 こんなに暖かいのに。 こんなに傍に居るのに。 何故火村は此処に居るのが私だと言うことが解らないのだろう。 名前を呼んでくれることもなく、私が友人だったことすらも忘れてしまって。 かわいそうだ。 火村に忘れられてしまった私も、犬になってしまった火村も。 悲しくて、苦しくて、切なくて、呼吸すらも紡げずに。 私はふかふかと柔らかな毛並みの火村を強く掻き抱き、過去の姿形とその全てを恋しく想い、ただただ涙を零した。 ふと唇に何か柔らかいものが触れ、目が覚めた。 先ほどの夢の続きなのか、何の疑いもなくそれが火村の唇だと解ったが、私は目を開かずに眠っているふりをする。 火村は息を殺したように、そっと私の唇を啄ばんで離れた。 「…アリス…」 夢の中で聞きたくて仕方なかったバリトンが、囁くように私の名前を呼ぶ。しかし、私は瞳を上げることが出来ず、眠ったふりを続けた。 火村の指が頬に触れ、目元を拭い、私は自分が泣いていたことに気付く。きっと、あの夢がとても悲しかったから。 それから少しして、ふっと何かを堪えるような吐息が火村の唇から漏らされ、寄せられていた身体を離す気配が伝わってきた。続いて耳に入るのは床を踏む微かな軋みと、開けられる扉の音。それがまた閉められた時、私は漸く薄っすらと瞳を上げる。 視線の先には見慣れた天井。 緩々と指を持ち上げると私は自分の唇を、残るその温もりを確かめるように撫ぜた。 火村は何故私に口付け、私は何故同性である火村の唇を受け入れ、剰え心地良く思ったのか。 ぼんやりと思案しながら窓の外に視線を遣り、私は眠っていた時間がさして長くなかったことを知る。 友人に向けるのとは違う感情。これは所謂異性に向けた好意と同じモノか、それともただの錯覚か。 視線の先には日が沈む瞬間の黄昏色。 随分とおかしな追いかけっこを始めてしまったらしい、と私は思う。 鬼は君か、それとも私か。 2004.05.20
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