後先
甘い匂いに、思わず笑みが零れた。
そう、これはとても甘くていい香り。
暖かくて、紅くて、綺麗。
あまりの美しさに、少しの眩暈。
「……おれに触るな……」
伸ばされた手に気づいて無感情に呟く。
これを奪うのは許さない。
誰のものでもない、自分一人のモノだから。
指に掬った紅い美味しい蜜を、ゆっくりと口許に運んで舐めとって。
口に広がる、蜂蜜のような甘さが舌に馴染む。
これはあげない、おれのモノ。
お願い、手を出さないで。
煙草の匂いのみが満ちたその部屋は、薄暗く。
灯される明かりも無しに、けれど人の気配だけは静かにそこにあって。
言葉を紡ぐこともなく後ろ手に扉を閉めると、六太は部屋の中へと視線を巡らせてこの部屋の主である男の姿を探す。
煙たい空気に眉を顰めながら足を進め、時折つま先に当たるのは空の酒瓶。部屋のあちこちに散らかっているそれを極力蹴らぬように気を付けながら、ゆっくりと牀榻まで歩みを進めた。
「……尚隆……」
囁くように名前を呼ぶと、牀榻の上へと横たわっていた大きな陰が僅かに揺らぐ。溜息のような吐息が聞こえ、ゆらり紫煙が天井へと昇り。
「……どうした、六太?」
聞き慣れたそれよりも、僅かに掠れた声が鼓膜を震わせる。
しかし明かり無く澱んだ部屋の中に、その声はいやに良く通った。
「……別に、遊びに来ただけ……」
なるべく軽い調子で答えると、聞いていたのかいないのか、返事も無いまま尚隆がまた新しい煙草に火を付ける。
それを特に気にした様子も無く、牀榻の傍らまで来ると六太はその端へと腰を下ろして。薄明かりの下薄っすらと伺える、主の顔へと視線を向けた。
人は皆、尚隆は良い王だという。
民を思い、国を思い、我欲に溺れぬ立派な王だと。
雁をここまで栄えさせ、豊かな国へと変えたのは全て王の力量だと。
しかし、今ここに居る男がその王と同じ人物だと誰が気付くだろう。その横顔には自信に満ちた力強さも無ければ、宙を見つめる瞳は何も写してはいない。
この王宮の中でさえ、尚隆が傍に置く重臣達の中にでさえ、この男のこの顔を知っている人間は存在しない。
王としての尚隆も本当。
けれど、ここに居る尚隆も紛れも無く本当で。
「―――……なんて顔をしているんだ、お前は」
気付かぬうちに表情に出ていたのだろう、山盛りになった灰皿へと煙草を押し付けた尚隆が自嘲的に呟いて笑った。
そっと、不似合いなほど優しい仕草で頬を撫ぜられる。
温かい指先は、嗅ぎ慣れた煙草の匂いがした。
鼻の奥が、ツンと痛む。これはきっと煙草の所為。
「……なぁ、尚隆……?」
「ん?」
頬を包む掌へと自分のそれを重ねると、指を絡めるように握り合わせられる。その掌から伝わる、ホンの僅かな震え。それを宥めるように、絡められた指へとそっと力を篭めた。
「まだ、平気か?」
噛み締めるように、ゆっくりと言葉を吐き出すと握り合わせた指に僅かに力が篭め返され。合わせたままの視線の先で、鳶色の瞳が微かに細められる。
「……あぁ、明日まで羽を伸ばしたらな」
何度目か解らないぐらい繰り返されてきた、同じ問い。返されてきたのもやはり同じ答えで、それも何度目かはもう覚えていない程。
けれど、でも何かが違っていて。
握り合わせたのとは反対の手を伸べると、六太は柔らかな仕草で尚隆の頭を抱き寄せた。驚いたように瞠目した様子には気付かぬ振りで胸へと抱き込み、そのまま無造作に解かれたままの髪を梳く。
「……辛くなったら、終わらせような……?」
きっと、口にしてはいけない言葉。
麒麟としてこの世に生を受けた瞬間から、それは考えてはいけない禁忌。
王として一国を得た瞬間から、外された選択肢。
微かに震える自分の声を聞きながら、抱きしめた身体に縋るようにその腕の力を強めて。鼻先を胸へと抱いた頭へと摺り寄せると、髪に染みた煙草の匂いに僅かに斯界が霞んだ。
「……お前も本当に……」
馬鹿だな、と柔らかく抱き締めた腕の下から尚隆が笑う。ゆっくりとした動作で背中を抱き締め返され、安堵にも似た感情に頬が冷たく濡れた。回し返された腕の温かさが切なくて、何度も何度も小さく頷いて。
何故こんなにも抱きしめた体温が愛しく苦しいのだろうと、漏れそうになる嗚咽を堪える為に六太は緩く唇を噛む。宥めるように背中を撫ぜられ、伝わる身体の震えはどちらのものなのか、既に解らなくなっていた。
「……六太、願いは有るか?」
壁へと背へと身体を預け、伸ばした足の間へと六太を引き寄せると胸へと抱き込みながら尚隆が呟くように問いを紡ぐ。縋るように廻していた腕を緩め、問われた言葉に数度瞬きを繰り返すと六太は間近な顔を見上げるように瞳を上げた。
不意に視線が合わさり、その先で尚隆がふっと柔らかく表情を和ませる。問われた言葉の意味を理解し損ねた様子の六太に笑うと、啄ばむような口付けを落とされて。
「……例えばもし、俺が死んだ後とか。お前が死ぬ前か」
何か望みがあるだろう、と不似合いなほどに穏やかな語調で紡がれた言葉。その言葉の意味を理解するまでに僅かの時間を要してから、六太は涙に頬を濡らしたままふわりと微笑んで見せる。
「お前の傍に居たい」
麒麟としてではなく、王ではないただの人としてのこの男の傍に。
最期に一度ぐらいは許される願いだろうと、一人胸の内で零される呟き。
それが聞こえたかのように尚隆は低く喉を慣らして笑うと、六太を抱いた腕を幼子をあやすような動きで柔らかく揺らした。
「欲深いのかどうか、計り難い奴だな」
言葉とともに大きな掌で頬を拭われると緩く瞳を伏せ、六太は小さく笑う。計り難い筈が無い、王を独り占めしたいなどと思うこと自体がきっと欲深いのだ。民よりも己の欲望に負けた麒麟など、きっと在ってはならぬもの。
「なぁ、尚隆は?」
呟くように、小さく問いを返した。
「……ん?」
微かに微笑む気配がして、額へと一つ口付けが落とされる。
「俺か? 俺はな……―――」
―――紅い。
人間の身体のどこにこれだけの液体が入っていたのかと、そんな事を考えながら血溜まりの中に蹲る。広く白一色に統一された部屋の中で、血の色だけが妙に鮮明に生きた。
鼻を突くきな臭い匂いだけが嗅覚を満たし、僅かな眩暈に視界が白んで。
紅い水溜りの中へと放り出されていた短剣に手を伸ばして引き寄せると、膝へと抱き込むように抱えていた、自分よりも大柄な体へと刃先を食い込ませる。
切っ先を突き入れ、肉を抉り取っても噴き出さない血液に知らず涙が滲んだ。抱いた温もりが少しずつ腕から逃れ、ゆっくりと冷たくなっているのを肌を通して知る。無残に引き裂かれた尚隆の胸元から溢れ出した血液を吸い込んだ衣服が重く手足に纏わりつき、冬の海へと放り出されたような寒さに六太は知らず体を震わせた。
「……延麒……」
背後で掠れた女怪の声がした。制止の為だろう、伸ばされた腕の気配を感じて振り返ると、泣きそうな顔をした沃飛が伸ばしかけた指先をピクリと震わせて止める。その様子を見遣りながら、微かに笑うと六太は緩く頭を振った。
背中へと視線を感じたまま、鮮血を滴らせる抉り取ったばかりの肉片を指先で摘み上げる。まだ生暖かい血肉が、少し前まで聞こえていた声を思い出させた。
ずっと好きだった通りの良い声音。
何処に居ても聞き間違えることなど無かったその声を、もう聞くことなどない。その事実が可笑しくて、啜り泣きにも似た笑いが形の良い唇を震わせた。
血に汚れた指先で、摘み上げた肉片をゆっくりと口許へと運ぶ。口付けを交わす時のようにそっと舌先を伸べて、舌腹に乗せるようにしてまだ体温を残すそれを口へと含んだ。
口腔を満たした、鉄を噛み締めたような味に緩く眉根を寄せながらも、味わうようにゆっくりと租借して。胸元から込み上げてきた微かな嘔吐感ごと飲み込むように、それを小さく喉を鳴らして嚥下する。
酷い眩暈がした。じわじわと少しずつ視界が闇に包まれる感覚と、臓腑から焼き焦がされるような痛みが身体を襲う。その状況に何故だか知らず笑みが零れ、血に濡れた掌を瞳を伏せたまま動かぬ主の顔へとそっと触れさせた。
「……なぁ、尚隆……おれじゃ食いきれない……」
唯一穢れの無かった頬が血に汚れ、それでもこの王の顔が好きだと思う。
何時も自分の預かり知らぬところで剣を振るっては、何処かすっきりとした表情で帰ってきた時のこの男の顔が、本当はとても好きだった。
見慣れた、今は瞼の奥へと瞳の隠された顔を見つめたまま、上体を屈めるようにして唇を柔らかく重ねる。
覚えている筈の温もりよりも冷たいそれに何度も啄ばむような口付けを繰り返しながら、片手に持ったままだった短剣をそっと握り直して。
ゆっくりと自身の首筋へと添えると、肌の上をすっと滑らせるように刃を引く。僅かな間を置いてから、勢い良く鮮血が切り口から噴出して血溜まりがまた一回り大きくなった。
体重を支えることの出来なくなった六太の身体が崩れ、重ねていた唇がずれるように離れると自然尚隆に多い被さるような形になる。
こんな時にでさえ近く触れ合った身体が嬉しくて、微笑むようにそっと表情を和らげると、六太は深く溜息のような吐息を吐き出した。
「延麒!!」
悲鳴のような声が鼓膜を震わせた気がしたが、それよりも凍えた肌を温めるように身体を濡らす温もりが心地良く、六太はゆっくりと重くなった瞼を伏せる。
ごめんな、と誰にともなく呟いた声は、笛を吹くような音をか細く紡いだだけで。
遠くで複数の足音と共に、乱暴に扉が開かれる音が響いた。
しかしそれに顔を上げるものは無く、ただ静かに。交じり合った鮮血だけが床を濡らし、吸い込まれるようにして、消えた。
2002.08.26